【親子で体験学習!】世界遺産『富岡製糸場』
富岡製糸場とは
2014年6月に世界遺産に登録されました。国内の近代以降の産業施設の跡(産業遺産)が登録されたのはこれが初めてです。
富岡製糸場は1872年に殖産興業をめざして官営工場として設立されました。
官営工場とは政府(明治政府)がつくった工場という意味です。
カイコガの幼虫がつくる繭から絹糸のもとである生糸をつくるための工場で、生糸づくりに必要な機械と技術は主にフランスから取り入れました。
富岡製糸場で生産された生糸は日本の主要な輸出品となり、日本の近代化に大きく貢献しました。
〜そのころの日本を考えてみよう!〜
明治の初め、政府は欧米の制度や文化を取り入れました。
当時の日本は諸外国から不平等条約をおしつけられており、それを改正するために、まずは外国の文化を取り入れようとしました。
「ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」という当時の歌われたいた言葉は聞いたことがあると思います。
「ざんぎり頭」とはちょんまげを切った後の頭のこと。
武士のシンボルであるちょんまげを切ったくらいなのですから、大きな変化がありました。
当時の人々の生活の変化を文明開化と言いました。
では、どのような変化があったのでしょうか?
1871年には前島密が郵便制度を確立しました。
江戸時代にも飛脚はありましたが、幕府や大名、大商人など利用は一部の人に限られました。
1872年には新橋-横浜間で鉄道が開通されました。
太陽暦を取り入れたのも同じ1872年です。
他にも、大都市で帽子、洋服、くつを身につける人が現れたり、れんが造りの洋館が建てられたりしました。
また、大森貝塚を発見したアメリカ人のモース、札幌農学校教頭であり、「少年よ大志を抱け」で有名なアメリカ人のクラーク、ドイツ人の医者であるベルツなどが「お雇い外国人」としてやってきました。
日本からも津田梅子がアメリカに留学するなど、外国の文化を知ろうという動きが活発になっていきます。
しかし、外国の文化を取り入れたからといって、外国に認めてもらえるわけではありません。やはり強くなければいけません。
そこで、明治政府は「富国強兵」・「殖産興業」というスローガンを掲げました。
富国強兵は、産業をさかんにして国の経済力を強め、強い軍隊を持つことです。
殖産興業は、生産を増やし、産業をさかんにしようということです。
明治維新後、政府は日本を外国と対等な立場にするため、産業や科学技術の近代化を進めました。
そのための 資金を集める方法として、生糸の輸出が一番効果的だと考えました。
そこで政府は生糸の品質改善・生産向上と、技術指導者を育成するため、洋式の繰糸器械を備そな えた模範工場をつくることにしたのです。
同じく1872年には学制が出されています。
富国強兵を進めるには国民の教育が必要であると考え、全国に小学校が作られました。
しかし、農村では貴重な働き手である子どもが学校に行ってしまうと仕事がきつくなり、しかも学校の授業料を払うことができないと批判されました。
また、1873年には徴兵令と地租改正が出されました。
日本は江戸時代末期に開国した際、生糸が主要な輸出品となっていたが、粗製濫造の横行によって国際的評価を落としていた。
そのため、官営の器械製糸工場建設が計画されるようになりました。
富岡製糸場は1872年にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場であり、
器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていました。
そこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献しました。
第二次世界大戦時のアメリカ軍空襲の被害を受けずに済んだ上、操業停止後も片倉工業が保存に尽力したことなどもあって、繰糸所を始めとする開業当初の木骨レンガ造の建造物群が良好な状態で現代まで残っています。
(関連記事)